Art Column
第8回「龍がゆく」
正月元日午後4時過ぎ、輪島を震度7の地震が襲った。富山も震度5強、これまで経験したことのない激しい揺れに狼狽えた。その時私は年末から高齢者向けのサービス住宅に入居しそこで正月を迎えた母の世話を終え、車で画廊に戻る途中だった。
母は、去年11月1日左足の大腿骨を骨折し手術をした。術後は順調に回復し歩行機を使って歩く事も出来るようになっていたので、年末年始面会が叶わなくなる病院でひとり正月を迎えさせるのも忍びなく、退院をして急遽紹介を受けた富山市内の施設に入居していた。
食が進まない母に食べてもらおうと、暮れから正月、妹と交替で毎日母の世話をしに施設へ通った。しかし食事を拒否する母の抵抗は弛まなかった。思案の末、2週間居た施設を退去し、自宅兼画廊の私の住まいで母と共に暮らす事を決心した。母を連れてきた最初の日、連休でなかなか手配のつかなかった医師の往診も受け、夜中に喉の渇きを訴える母の声に起きたり、またしばらくして「お腹が空いた」と起こされても、私は安堵の夜を過ごせた。しかし翌朝、少量の朝食を済ませしばし穏やかにみえた母に異変が生じた。突如手が震えだし息があらくなった。すぐさま救急車を呼んで病院に運ばれたが、母は敗血症性ショックと診断され、ICUに入った。医師からは極めて厳しい状態であり今日一日がヤマだと言われた。
母は食べなかったのではなく、食べられなかったのだった。母の体が、そのような恐ろしい病に侵されていたとはつゆも知らず、愕然となった。母に「食べて歩いて」とくり返し言った事が申し訳なく、後悔が波のように私を襲った。
母は何事にも前向きだった。若い時分から仕事と家事を両立させ、障害のある父を助けて、私たち二人の娘を私立の大学に学ばせたことを密かに自慢としていた。70歳まで商店街で家電の販売店を営み、店じまいした後その店舗を私の画廊の支店としてからも、10年余りあれこれ私の仕事を助けてくれた。
画廊に展示する作品の中では、色彩が美しく自らが励まされるような力を宿す作品を母は好んだ。12年前の辰年の正月、母は「めでたき富士」と題された片岡球子の大判の版画を求め、玄関に飾った。いくら陽におされても決して陰が濃くならない球子の富士。白い雪を山頂に頂く赤富士の、空に大きく龍が飛翔する干支に因んだ作品であった。
その年の春桜のころ、母の懸命な介護にもかかわらず、父が逝った。以来毎年魚津の実家では、龍を亡くなった父に見立て、この作品を玄関に飾って正月を迎えた。しかしその家も母の不在で空き家とせざるを得なくなり、私は今年初めて、球子の龍を画廊に移して、正月を富山の私の家で迎えた。
ICUに入る前、一晩だけ私の家で過ごした母は、「大きな家だね、安心した。」と初めて来たようなことを言った。また今自分は何処にいるのかと問い、ここは富山の私の住まいで、これからはずっとここで私と住まうのだと答えると、画廊は何処だと訊く。ここは2階、1階が画廊だと答えたら、「それは豪華やね」と返した。
医者も驚く生命力で母は今一般病棟のベッドにいる。長生きも考えものだと呟いたりしながら、余命を私たちのために残してくれた。静かに横たわる母の身体のその体内で、今病原菌との全力の闘いがなされているのか。
龍、天と地をつなぐもの。
同じ空気を吸って、母の命は今しばらく、この世で私とつながっている。