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第17回 「手と語る」

2024年11月01日更新

 褒められたという記憶に乏しい。
 そんな私を「叱られながら一番いいところを取って行く」と褒めて?下さった奇特なお客さんがあった。
 ある日呼ばれて伺った目の前に、どうだと言わんばかりに河井寛次郎の稀少な木彫作品が披露された。
 高さ70センチに迫る左右の手をあわせた像。手の甲には※木喰仏(もくじきぶつ)を思わせる喜色満面を彫み、受けるようにあわせられた肉厚の手のひらが、あたたかく安心立命(あんじんりつめい)を促す。営々とした仕事が、自他共に安心を決定(けつじょう)したいとの希願をいきいきと伝える。
 充満する濃厚な生命の底知れぬ力に打たれた。寛次郎の慈愛に満ちた正に圧巻の一作。自著を発行するため手放された、※池田三四郎氏の旧蔵品との事であった。

 「手」の彫刻と言えば思い出されるのが高村光太郎のブロンズ。高さ40センチほどもあろうか。美術館の常設展示の中でも取り分け惹きつけられるそれは、遠目には何か黒く屹立するものとして目に映る。写実的表現に敬愛したロダンの影響が認められる一方で、奈良の諸仏の研究調査も怠らなかったという光太郎の、東洋の美との自然な調和が、神懸かり的な造型を生み出している。「手」であるのに屹立して見えると言うのもおかしなことだが、初めて見た時からいつ見てもその印象は変わらない。
 ブロンズは木彫とは異なる緊張を強いて、一瞬近寄り難くさえあるが、傍で観るとしみじみと美しい。その崇高さは、作者の審美の鍛錬を思わせ、改めて芸術家高村光太郎の孤高に瞠目する。

 寛次郎の木彫も光太郎のブロンズも、人が語り得ない生の深淵をそれぞれに告げ知らしめる。
 美を素直に受け取れば不思議と拝む心になる。美にふれるということは、そのまま「救い」の業にふれるということか。

 虎の尾に、ツリガネニンジン、シモツケソウ。竹籠の淡いピンクやブルー、白く小さな夏の花々が、季節はずれに私の部屋を賑わしている。母の誕生日に贈ろうと求めた堀文子のリトグラフ「高原の花」。
 去年の夏母の部屋に一度かけたが、秋も深まった頃母は骨折して入院し、今年春に亡くなった。
 花たちが担う儚さに私は気がついていなかった。私は母の気持ちを何も分かっていなかった。薄墨色の背景に花が今にも消えゆきそうに見える。
 卒哭忌もとうに過ぎ二百ケ日にもなろうとするのに、偲んでかけた絵を外せないでいるうち、季節は巡る。

 母は福々しく大きいな手を持つ人だった。私達ふたりの娘は残念ながらどちらもその手を受け継がなかったが。若い頃に聴力を失った父と、日常は空に指で文字を書きコミュニケーションをとっていた。むろん私達も父との会話は筆談だったが、理解の速さや深さは、父と母とのそれには及ばなかった。二人の会話はあたりまえに特別だった。母はもっぱらカタカナで書いていたらしい。左の手のひらに書く時は、大きな母の手が文字通り大役を果たした。ふっくらした母の指から書き出される文字は、口論の時でさえ父に愛を伝えたことだろう。
 別れの時、きまって母は薬指と中指をくっつけてひらひらと手を振った。
 死の淵で私にさし出された母の手は、無言で私の無念を、私の悲しみを、ただかき消そうとするかのようだった。それは命の瀬戸際で最後に私に向けられた済度の手であった。

▲柳宗悦「慈光」(軸)40.8×30.6㎝(紙寸)濱田庄司 識箱



※木喰仏
江戸時代後期に活躍した木喰上人(もくじきじょうにん)によって彫られた木製の仏像。
木喰上人(1718-1810) 現在の山梨県身延町生まれ。
22歳で出家。45歳の時、木喰戒(五穀を断ち、火を通したものを取らず、山菜や木の実を食して生活するという修行)を受け、 56歳で日本廻国修行の旅に出てから93歳で生涯を閉じるまで、各地に多くの仏像を残す。
巨木を相手に仏を刻んだ木喰上人は「木喰さん」とよばれて親しまれ、仏像は人々の心の拠り所となった。

※池田三四郎(1909-1999)木工家。
長野県松本市生まれ。
1944年中央構材工業会社(後の松本民芸家具)の設立に参加。 1948年柳宗悦に師事し、民藝運動に参加。「用の美」の思想を実践。 指物師に受け継がれていた技術を生かし、和家具にヨーロッパや李朝の家具の技術を取り入れた作品で知られる。

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