Art Column

第28回「一谷はんのこと」
秋の陽光に、鹿島一谷の香炉が清々しく映る。
閑かな湖面にたつ漣を連想する地金の小さな打ち出し。細かい目切りは天鵞絨(びろーど)のようにやさしく、象嵌を研ぎ出して※表したグラデーションは墨絵のように美しい。
鹿島一谷は、1898年(明治31年) 曽祖父の代から続く布目象嵌※を生業とする家に生まれた。伝統の技術に新たな工夫を凝らし、日本人の美意識を金属に反映させた。まさに燻し銀の技である。
さて、今年も日本伝統工芸展開催の季節がめぐってきた。工芸は、伝統と自然から多くを学び、こころと技術を尽くさなくては成り立たない仕事である。
なかでも日本の金工技術は世界的にも類例を見ない特殊なものが多く、早くから海外でも注目されている。
「思いがあれば技術は後からついてくる」と陶工河井寛次郎は言った。技術習得の鍛錬の「行」に向き合う身を、自ら鼓舞し、手仕事に対する誇りと矜持を示したものであろう。金属という手強い素材と向き合い、素材を導きつつ素材に導かれていくところに金工の妙味はある。
私の美術の師匠は鹿島さんの大ファンだった。「一谷はん」と親しみを込めて呼び、三越から届いた個展の図録を眺めながら、さてどの作品を求めたものかと、価格表と睨めっこして思案されていた姿は実に楽しそうだった。作品は勿論のこと、手紙や電話で作家本人と交流するうち、その人柄に惚れ込んだ。
重要無形文化財保持者(彫金)に認定された一谷氏が、その前年、傘寿に孫の和生氏を養子に迎え可愛がった様子など、子持たずの師匠から少し羨む感じでよく聞かされた。話に無駄や曖昧さがなく、作品同様淡々として、自然を、何より自由を尊ぶ、年齢からは想像できない瑞々しい作家の感性が、私にも伝わって来た。作家が住む昔ながらの下町の佇まいを想像し、江戸の風情と洗練された気風を作品に重ね合わせてみたりした。
五代目を継いだ孫の和生氏によれば、近頃は伝統工芸展など展覧会に出品しても、非売とする作家が多いと嘆く主催者の話をよく耳にするが、作家を本業とした一谷は、次の作品の創作の糧とするため、非売出品は一切しなかったと言う。
86歳にして初の個展を開催し、90歳で卒寿展、95歳、97歳で個展と制作意欲は衰えることなく、99歳の白寿展を目標にして新作を作りためていた矢先、体調を崩し亡くなったとの事であった。
縁あって数年前、鹿島一谷、和生作品を主軸として、日本金工の最前線で活躍する作家の作品を一堂に会した展覧会をお手伝いする仕事に恵まれた。彼岸の師匠もさぞや仰天されているだろうと多少誇らしくあった。しかし最近そのコレクションが散逸してしまったと知った。残念でならない。
傍らに置いた作品と語る。世評など全く頓着せず、過去の作風に固執することなく、ひたすら彫金の道に精進し、生涯を全うした「一谷はん」と。
澄んだ秋の空に、こころの鉦を打ちならそう。
※布目象嵌
熊本の肥後象嵌、京都の京象嵌など、鉄地に特化した加飾技法。鹿島布目は、鉄の代わりに色金である赤胴や黒四分一といった固い地金に施す布目象嵌技法として開発された。全体に布目状に目切りを施し、地板に図案を写し、目切りに垂直に目切り鏨を打って薄い金や銀箔を嵌めていく象嵌技法。
※研ぎ出し象嵌
明治中期に絵画風の意匠が流行したことから、日本画風の画面を彫金で表すことが出来る研ぎ出し象嵌を二代鹿島一谷が考案。
布目象嵌で一回嵌めた銀箔を炭で研いで部分的に薄くし、グラデーションをつける。研ぎ残した部分は銀の白さが残り、多く研いだ部分は地色がでて黒っぽくなり水墨画のように仕上がる。
