Art Column
第33回 「白鳥の歌」
朝まだきに家を出て向かった東京はすでに春だった。お茶の水駅で電車を降りて、香る梅の花に誘われるまま聖橋口から駿河台へと進み、神保町まで歩いた。
道すがら翠色が鮮やかなドームの屋根のニコライ堂が見えた。一瞬少なからぬ思い出が頭を過る。しかし今は懐古する時ではないと記憶を遠ざけた。
その夜お世話になった方の通夜に参列するための上京であった。
ただ偶然目にしたニコライ堂は、帰ってもしばらく頭から離れなかった。
八王子に移転するまではお茶の水にあった大学に通った。ニコライ堂を描くために竣介もお茶の水にはよく通っただろうとふと思った。
松本竣介という画家を知ったのはいつだったか。卒業後入社した画廊に子供の顔を描いた小品があった。それが竣介の木炭画だった。その絵が欲しくて、留守を任される度にこっそりタトウ箱から絵を取り出して、ひとり眺めた。あんなに一つの絵を渇望した若い自分が懐かしい。今あの絵が欲しいと思っても、似た絵にさえ出会えない。
現在は都会の街で威容を誇るニコライ堂だが、戦火で焼け残ったニコライ堂の姿は竣介の目にどう映ったのだろうか。失われた青春の思想と果たせない夢をそこに追い求めたのか。
知的な思考に基づき描かれた竣介の建物や運河の風景の、丹念に絵の具を塗り重ね磨き上げた拭き漆のような絵肌が、比類なく美しい。描く対象と画家との空間、さらにはその絵を見る者との空間さえも描き出しているように感じられる。いつの間にか焼土に立つ竣介と同じ空間に私は誘われる。焼け跡を竣介の夢がさまようその空間に、美が生まれている。
戦争の時代を芸術の力を信じて生きた夢の先に、竣介は何を見ていたのだろうか。
1948年6月8日、気管支喘息による心臓衰弱のため36歳で死んでしまった竣介は、5月に高熱をおして絶筆「彫刻と女」と「建物」を完成させた。それらは義妹らの手によって第2回美術団体連合展会場に搬入されている。※註1
中学の同級で竣介の親友だった舟越保武は、その随想※註2に絶筆「建物」を見た時の想いを次のように記している。
「あれは絶筆になったのではなく、竣介は、たしかに絶筆として描いた。これほどに、画家の生命の終結を思わせる絵は他にない」と。そして最後を「わたしは、この絵の中に、竣介の決別の言葉を聞く想いがする」と言う一行で結んでいる。
さて、以前から私には「彫刻と女」が、「建物」と同じく絶筆でありながら、何か穏やかな雰囲気を漂わせているのが不思議であった。そこに迫り来る死の気配は感じられない。むしろ死から遠いところに竣介の存在を感じる。
改めて作品集を開いてみる。
彫刻になりたい絵と絵の中の彫刻の親和的空間から醸し出された透明な空気を感じる。正面を向く頭像に目を凝らすが、定かにその視線が確認できない。しかし厳然とした佇まいは確かに未来に相対していると見得る。
不意に、「彫刻と女」に描かれたブロンズの頭像と、頭像に手をかざし愛おしむように寄り添う若い女性の姿に、かつてイタリアに行った時サンピエトロ大聖堂で見たミケランジェロのピエタ像の、磔刑にされて死んだキリストを腕に抱く聖母マリアが重なって見えた。
20代も前半のミケランジェロが完成させた石彫ピエタ。哀しみが、その美によって人間の永遠を照らし出している。同様に竣介の絵が未来を見つめ、生きることに直結している。「彫刻と女」は絶筆として描かれたのではなく絶筆になった絵だと思いたい。
その絵から決別の言葉は聞こえない。
註1 生誕100年松本竣介展図録(2012年) 年譜 1948年の記載より
註2 舟越保武著「石の音、石の影」筑摩書房刊 1985年 松本竣介 完成と挫折より
