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アートコラム

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第25回「光の情景」

2025年07月01日更新

 得意げに開けられた箱の中身は、脱皮した姿もそのままの蛇皮だった。ここ数年、験を担ぐこともさっぱりしなくなった私をよそに、蛇にまつわる話は、細い紙の管に火薬を詰めて輪にした蛇ならぬ、ネズミ花火よろしく、この前の巳年にまで飛び火した。
 浅草の浅草寺で12年に一度ご開帳の弁財天を、友と私と相棒と三人で詣でたという。友がくれた浅草寺の御守りは、今も確かに神棚に祀ってはあるが、一緒に詣でたというのは友の思い違いだ。私がそう言っても、相棒も覚えていると言っていたと、友は一歩も引かない。
 「三人で一緒に行ったと思い込んでいるんだから、それでいいじゃない」と相棒は言う。それぞれにタフな時を経て、思い込みがいつの間にか思い出となって今ひかり輝いている、その友の想いこそが大切だと、深妙である。
 記憶はフィクションからリアルへ夢のようにその相貌を変え、私を沈黙させた。

 オランダの画家、ファステンハウト(1935-2016)の作品を最初に見たのは2000年5月23日。東京のギャラリーの個展会場だった。いつ何処だったか全く覚えていないのに詳細に記すことが出来るのは、求めた作品集に画家自筆のサインと日付が記され、展覧会の案内状が一葉大事そうに挟まれてあったから。
 形は単純明快、矩形によって幾何学的に構築されている抽象絵画。形とは対照的に、色は全体に暗く曖昧である。
 下層の色から浮かび上がったような白の色面が、闇にさす光のようにわずかに画面の縁に配されることで、曖昧なうちにも、絵画にひとつの世界を出現させている。
 限られたごくわずかな色面の矩形にかこまれた黒色に、見る側は闇の世界を覗き込む。そしてしばし途方にくれてしまう。しかし次第にその混沌の世界に没頭して、やがてある解放感に満たされて行く自分に気づく。
 抽象絵画を記憶や情景を呼び覚ますひとつの装置と考えてみれば、色は記憶につながり、やがて形は姿をかえ、ある情景に変容すると言うことができるかもしれない

 私は時折思い出す。夏のまだ少し夕方のひかりが残っている台所の食卓で、ひとり私の帰りを待っている母の姿を。台所は2階にあって勝手口からすぐの階段を上がると、食卓について椅子の背に身体を持たせ掛けた母の顔が正面に向かう。
 その顔が私を待つと言うより、ひとり夕闇に相対しているように見えて瞬間どきっとすることがあった。
 老いた母は、闇に自らを馴らしているようだった。

 「紫陽花はどう、要らない?」 
 芍薬の季節が終わってしばらくして、妹からまた連絡があった。
 実家の鍵を開けて暗がりを足もとに気をつけながら進むと、チョロチョロと井戸水の音がする薄暗い流しの盥に投げ活けられて、花が重そうな紫陽花が届けられていた。かすかな光に目を凝らすと、母が好んだ「墨田の花火」の白い花も見えた。
 7月生まれの母の面影が暗がりの紫陽花と重なって、外光が届きにくいほの暗い台所の、そこだけ薄むらさきに光ってみえた。

▲Geert van Fastenhout 「schilderij №4-1995」70×40㎝

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