Art Column
第9回「春月の我が身に遠くありにけり」
ロシアのウクライナ侵攻がはじまってからすでに2年以上が経ち、メディアは連日終わりの見えない戦争の惨禍を伝えてくる。暗澹となる。「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」新美南吉の童話に出てくるお母さん狐のリフレイン。人間に対する懐疑の呟き。
さらにニュースは、被災後の能登の様子を愛する人と故郷を失った人々の深い悲しみを、伝える。言葉がない。南吉の童話の小さい太郎の悲しみ。泣いて消えない、泣くことのできない悲しみがあることを知らされた太郎。その胸に広がる深く、虚ろな悲しみ。
人は誰でも悲しみを背負って生きているのだから、自分で自分の悲しみに耐えて生きていかなければならない。そう新美南吉は言う。それは真理であろう。真理はあまりに峻厳だ。
孤独をえにしとしながら互いのかなしみを癒やし、悲しみに耐えてへこたれずに生きる力の尊さが、心に沁みる映画を見た。フィンランドの映画 アキ・カウリスマキ監督の「枯葉」だ。
ヘルシンキを舞台とし、物語は坦々と進んで行く。最も少なきに多くを含めて、例えば喜びがアルカイックスマイルに、怒りをラジオから流れるウクライナの戦況に、哀しさはそぼ降る雨、楽しみは拾ってきた犬に託して表現される。ささやかな日々の憂さ晴らしに登場するカラオケの雑多な歌。時折チャイコフスキーが秋の空の不穏な雲と共に流れる。挟み込まれる淡々とした思いやりのエピソード。晩秋の空のかすかな日差しの下、出会いを成就させた二人と愛犬が歩いて行く後ろ姿の先に、希望が垣間見える。
ある夜、舟のかたちに截金(きりかね)を施したようなくっきりとした三日月を見た。季節の移ろいを知り、高山辰雄の「春の月」を掛けてみた。はるか遠くに満ちた朧月、手前には花器に盛り飾られた大輪の真紅の椿が二輪描かれている。花器の椿は、うすい布にのせられて、まるで天空に浮かんでいるように見える。この世の混沌を離れて自由を希求するこころの象徴だろうか。絹に丁寧に置かれたひと筆ひと筆に、画家の息づかいを感じ、塗り重ねられた絵の具から画家の願いが伝わる。
辰雄の描く世界はつねに寡黙でどこかもの寂しいが、美しく、孤独ではない。
何より絵がわたしに親しい。
※春月の我が身に遠くありにけり(上林暁の句)
→映画「枯葉」はこちらから