Art Column
第16回 「追憶の秋」
「みんな忘れた」。
デスクの片隅からいきなり目にとびこんできた文字。スルー出来ないリアルな言葉である。
絵筆の先でササっと書かれたような6文字。よく見ればそれは画家野見山暁治のエッセイ集のタイトルだった。
野見山の絵はいつも何かよく分からない事物が、しかし非常に洗練された配色で描かれており、不思議と目が絵から離せなくなる。そんな絵を描く画家は、名文家としても知られ、数多くの著書を残している。
サブタイトルは「記憶のなかの人」。目次には交流のあった20名余りの人々の名前が出ている。今秋画廊で没後20年記念展を開催する銅版画家の南桂子のほか、馴染み深い画家や画廊、小説家の名の中に、金山康喜の名前を見つけた。
金山康喜は1926年大阪生まれ。わずか33歳で不慮の死を遂げた、知る人ぞ知る夭折の画家である。
作品はどこか哀しく、透明な美しさを湛えていて、どれもが静かだ。単に対象を翻訳するのとは異なる静物や景色を描いた絵画。金山は「わざわざキャンバスに描かなくても音楽みたいに色や形の楽譜をつくれば済むのに」といかにも面倒くさそうだった。野見山がそう書いている。
彼は余りにも複雑だった。言語で尽くせない内心を絵画で表現しようとトライしたが、それでも感情と感情の隙間を埋められなかった。もどかしい思いの堆積、彼は孤独を好んだ。
「全ての芸術は音楽の状態に憧れる」(ヴォルター・ペイター)
イメージや意味にとらわれない高い抽象度において、情動に訴えるのが音楽なら、金山はそんな音楽のような絵画を目指していたのだろうか。
とにかく金山の絵が欲しかった。金山は1943年、両親の故郷富山の旧制富山高等学校に入学し美術部に所属した。富山ゆかりの画家だから、作品を見つけるのはそんなに難しい事と思っていなかった。しかし、富山に居たのは戦争末期の僅か2年だけ。卒業後、東大に進学し大学院に進み1951年に渡仏した。金山の短い人生で画家としての活動期間は戦後の混乱の限られた時期であり、作品制作は主にフランスである。地元の縁は作品探しに殆ど功を奏さなかった。
最終的に金山のフランス時代をよく知る旧知の画商を訪ねて、力を貸してくれるよう頼んだ。彼の兄は画家で長い間フランスに居住、画商になった彼はフランスと日本を行き来していた。古くは金山とも交流があったと言う。「探せないことも無いだろう」と引き受けてくれたが、彼はいつも夕方銀座の画廊に来て、シャンソンを聴きながら私が訪ねて行っても酒ばかり飲んでいた。シャンパンを赤ワインで割ったキールロワイヤルなるものを飲み、私にはシャンパンをすすめた。
フランスの何処かに埋もれているかもしれない金山の作品を本当に日本に持ってこられるのか、時に不安が募ったが、40年も前のフランスの事である、彼に任せるしかなかった。話しが途絶えないようにと冬には氷見の鰤を送るなどして、私達はいつの間にか彼を鰤爺(じい)さんと呼び、金山を待ち続けた。
そして4年も経過した頃、一通の達筆の便りが私達のもとに届いた。金山の油彩画40号2作品の写真が入った、鰤爺さんからの便りだった。価格を見当してほしいとの事であった。
作品に不足はなかった。
ほんとうに大変だったのはそれからだった。
バブル崩壊以来日本経済は混乱を極め、その影響は深刻化していた。山一證券や北海道拓殖銀行が破綻し、その後長銀も潰れ、平成不況を象徴する大型倒産が相次いだ。当時私達を雇っていた会社も例外ではなかった。資金調達もままならず、私達は買い手を見つけることに奔走した。作品を買い取ってじっくりと納め先を見つけるという余裕はなかった。作品探しに費やした長の月日は、様々な意味で周囲の事情を大きく変えてしまった。
確認されている金山の油彩画は30数点と極めて稀少で、それでも出来る限りの情報を集め、凡その見当はつけたが、市場の価格調査は困難だった。そこで県美術館が過去に収蔵した4点の金山作品の購入価格を参考にするため、情報公開制度を利用することにした。しかし、その申請を出した途端に美術館から申請の取り消しを求められ、説明に来た担当者のあまりに激しい対応に面食らった私達は、理由が判然としないまま申請を取り下げた。あれは一体どういう事だったのか、未だに意味がよく分からない。
その後、県美術館に金山作品の購入のオファーもしたが、価格の折り合いがつかず、納入は叶わなかった。
半年程方々手を尽くし、2点のうち幸い一点は県内の美術愛好家に納めることが出来た。しかしもう一点の方は買い手が決まらず、残念ながら返却せざるを得なくなった。
県内のコレクターに納まった作品は1952年制作で、アイロン台の上に置かれたアイロン、シャツ、帽子、瓶など金山らしいモティーフが描かれた作品。金山の代表作として東京国立近代美術館で何度か見た事があった作品と、図柄や大きさもほぼ同様のものだった。
納め先が見つからなかったもう一点の作品は、1953年制作。パリの冬の風物詩とも言える「焼栗の屋台」が描かれた作品で、室内を描いた作品が多い金山としては、非常に珍しい図柄だった。
返却の際、作品を載せた美術運送のトラックがゆっくりと出て行った光景が、今でも目に焼きついている。
野見山さんの本をきっかけに、相棒と久しぶりに金山の話となった。当時二人とも未だ三十代、若かった。
返却後どうなったか分からなかった「焼栗の屋台」とは、2000年11月に富山県立近代美術館で開催された展覧会「金山康喜-青のリリシズム」で再会した。京都国立近代美術館に収蔵されていたと知った時の驚きと安堵が、懐かしくよみがえってくる。
今なら、もっとクールに仕事を進めて行けただろうと、あちこちにぶつかりながらそれでも夢中でやった仕事が、あれこれと思い出された。
記憶は思わぬところに飛び火して、作品を見送った時私が泣いていたと相棒が私を茶化す。
かえして曰く、そんなことはもう「みんな忘れた」。