Art Column

第19回 「南桂子は甘くない」
「南桂子」。彼女はすんなりそう答えた。数多の画家の中から一人だけ選ぶのはちょっと難しいかと思ったが、そう言われて私は少し拍子抜けした。彼女というのは現在共に画廊を経営する相棒である。当時私が勤めていた百貨店の美術部に新卒で入ってきたばかりだった。
南の無垢な少女の姿に、孤独な魂と厳しい自立の精神が秘められているという事を相棒はすでに分かっていたのだと気がついたのは、随分後になってからのことだった。
数年後、私たちは百貨店の美術の仕事を離れ、ある会社のオーナーに任されギャラリーをオープンすることになった。店のある高岡市が南の出身地であった事、幸運にも南の版画のまとまったコレクションにめぐり会えた事など、幾つかの偶然に導かれるようにギャラリーの柿落としは南桂子の銅版画展となった。1991年冬のことだった。それから1998年に独立する迄、定期的に南の個展を開催した。現在は画廊内に南の常設展示室を設け、30年余り南の作品を扱い続けている。
若い頃から芸術志向が強かった南は、絵画に興味をもち女学校時代に独学で油絵と版画を学び、詩作も試みている。終戦後は、東京に定住し、文学者や画家と交流するうち、当時親交が始まった浜口陽三によって版画の面白さを知ったという。浜口が渡仏した翌年の1945年44歳の時に、南もフランスに渡りパリに定住した。
パリの版画研究所で南は銅版画の各種技術を学ぶが、既に志向する芸術の方向が定まっていたのであろう、短期間に独自のスタイルを完成させ、作品は発表当初からすでに高い完成度を見せている。
アルバムから一枚一枚写真を取り出して見せるかの様に、心に沁み込んだ思いを一刻一刻と銅板に刻みこんで、版に自身を取り巻く自然の明澄な世界を出現させている。労力と忍耐を要する銅版画の制作は、制作しながら当の銅版画によって南自身の芸術が形成されて行った。直接的ではない版画の持つ間接美が南の気質にあったのだと思う。南は銅版画と出会い、銅版画もまた南に出会ったのだ。
南桂子の世界は近くて遠いように私には思われる。
近寄って銅版に施された点や線を目で追えば全体の絵が見え難くなり、絵を見ようとして離れると銅版画の技術的仕事が分かりづらくなる。通常タブローを鑑賞する時に当たり前に出来ている、描き出された事象とドローイングのタッチやマチエールを同時に感得する事がスムースに行われない。
例えば、ゴッホの向日葵が今目の前にあると想像してほしい。描かれた向日葵の形や色と、筆使いが生み出す絵の具の厚みやラインのうねりは、同時に視覚に迫り訴えかけてくる。しかし、南桂子の銅版画は描かれた絵と技術的特性が同時に鑑賞し難い。だから見る方は常に気持ちのどこかで見る事を少し諦めている。
私にとって、作品に近づきたい気持ちと距離を置く気持ちのバランスが上手く取れた時、南桂子の作品世界への扉が開かれる。描かれたモチーフは親しみ易く、現された作品世界は入り難い。平明な言葉で書かれた詩が存外難しい内容を孕んでいるのにも似て、南桂子は中々に手強い。上質な詩のように洗練された南桂子の銅版画は、しかし、強く美しい。
先日開館25周年となるミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションを訪れた。記念展で、浜口が通ったパリのルブラン工房の当時の刷り師が、浜口の原版を刷ったインタビュー映像を観る機会を得た。
以前、渡仏の動機を尋ねられた浜口は言葉少なに「銅版画系制作の為の設備が整っている所で仕事がしたかった」とだけ答えたと聞いた。映像を観てなるほどと納得した。作家によって担当の刷り師がつき、サイズの違うプレス機が何台も備わっている工房。潔癖なまでに清潔な技術を要する難しい刷りを、正に阿吽の呼吸で作家のイメージ通りに再現してみせる職人。職人に全幅の信頼をおいて工房で浜口は終始機嫌が良かった。「芸術家は一度で決める、やり直しをしたりしない」と刷り師が浜口の仕事振りを語り、南の版画もいくつも手がけたと手持ちの数点を自慢げに披露した。
最後に夫妻の印象を尋ねられて「お互いがお互いの仕事に口を出さず、ふたりはとても静かだった」と言った後「とても慎ましかった」と言い直した。
1950年代まだ海外への渡航も儘ならない時代に海を渡り、銅版画の本場西洋において、東洋の美的資質を銅版画に示した二人を誇らしく思った。
黙々と版画制作に勤しみ銅版画家として人生を全うした二人。パリから晩年サンフランシスコに移住して、共に90歳に近くなるまで日本には帰らなかった。
残された作品は、今もこの先も静かにその美の醗酵を深めていくことだろう。たとえその美を求める人があろうとなかろうと。

