香希画廊

Art Column

アートコラム

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第20回 「ありあけの月 」

2025年02月01日更新

 それははじめ切符のように見えた。手渡された小さなカードは、甥っ子が母の危篤の知らせに新幹線を待つ間、上野東照宮を参詣したその拝観券だと言う。確かに2024.1.11と刻印がある。長寿の家康にあやかっておばあちゃんは持ち直してくれたからそれで捨てられずに持っていたと、殊勝な事を言う。
 刻印の日から約3ヶ月、余命と言う時間を母は残してくれた。自らをむなしくして、娘たちのために。
 転院の日、ダウンコートにくるみ寝台に寝かせた母とタクシーに乗った。寡黙な運転手の後ろに私と母とふたりだけの車内はガランとして、私は唐突に賢治の銀河鉄道の列車を想った。ジョバンニのポケットの奥にあった「どこにでも行ける切符」。たよりない命を一体何処に連れて行こうとするのか。冬天の車窓から刹那に遠く白い毛勝山が見えた。なんの覚悟も出来てはいなかった。

 その人は覚悟を促すように、晩年「ぼーこく、ぼーこく」としばしば私たちに言われた。「亡国」。とうの昔にあの世へ行かれた私の美術の師匠、以前のコラムでもふれた、ルオーの「墓」の銅版画を寝室に掛けていると私が言ったら「そんな女は結婚出来んぞ」と、今なら即アウトな発言を堂々となさったあの御仁である。
 亡国の嘆きに比例して、氏の絵画、彫刻、陶芸、書などの幅広いコレクションは、次第に石の蒐集へと変わって行き、私はなんだかとても寂しかった。
 しかし認識というものはしばしば途方もなく遅れて訪れる。私は近頃、氏が亡国と言われたことをよく思い出すようになった。文学に続き「美術も終わり」かと画廊でぼやくことしきりである。近代日本美術の有り難さが今どうしようもなく失われていっている。自分の一部であった文化が次第に失われていくのを知りつつ生きることの寂しさを、師は痛感されたのだろう。
 嘆息する私の傍で、相棒はいつも前向きだ。「時代はうつろう。市場が限りなく恣意的になってもそれで美術が終わるわけではない。時の流れに抗うことは簡単じゃないにしても、美しいものを求める人はいつの世にも必ず存在する。いかにつまらないアートが市場に増えたとしても、求められるべき美術もその脇で同時に流通し続けている」と、私を励ます。

 ふたたびルオーである。ルオーはボードレールの「悪の華」を1927年モノクロの銅版画に14点版刷し、その10年程後にカラーで12点を制作している。
 モノクロの方の14点の中に「骸骨」がある。図柄が骸骨ではやはり売れまいと、自宅マンションに持って帰って掛けていた事がある。眺めるうち骸骨はゆくりなく私に親しくなり、白黒の複雑な階調は美しく、背中、腕、足の曲線に支配された画面から、あるリズムを感じるようになった。
 好きで求めた「墓」はカラーの12点の内のひとつだが、墓の黒い輪郭線の中に配置された色彩は、相互に響き合い、次第にひとつのハーモニーを奏でた。

<長いこだまの遠くから溶け合うよう、
涯(はて)しもなく夜のように光明のように、
幽明の深い合一のうちに、
匂と色と響きとは、かたみに歌う。>※
 ルオーは詩の言葉を単に絵画化しているのではない。ボードレールの持つ音楽的特質を見事に見抜き銅版画に表現している。その美しさはあたかも交響曲のようだった。

 「美しいとは何か」そもそもそういう問いを発しているのが、美術なのだ。

 「人生で美しいとは何か」。人が生きて行くうえで、この上なく大切なことを真正面から問いかけたその番組のタイトルに、瞬間目が釘付けとなった。NHK新日曜美術館(2025年1月12日9時放映)「舟越保武と子供たち」。
 年を重ねてあるいはすでにこの世を去った子供たちが、保武の作品を通して父と再会し、自身を見つめ直し、たがいの理解を深め合う姿に胸を衝かれた。そこにはなんの衒いも芸術論もない。人間でありつづけることの困難に打ち負かされる事なく、生き抜く姿が示されている。
 人は亡くなってなお生者によって生きながらえる。
 わずかに安気し、気持ちが少しだけほころんでいくのを覚えた。

 立春も近い。
 年が変わってさえ続くこのうつろな気持ちも、淡雪のように溶けて消えるのか。
 早朝の空に白くまだ月が残っていた。

※(ボードレール 悪の華「万物照応」より 福永武彦訳)

▲ジョルジュ・ルオー
「悪の華」のために版刻された14図 「骸骨」 1926年
粒子エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、スクレイパー、バーニッシャー
▲ジョルジュ・ルオー
悪の華 1936-1938(色刷)「墓」 1936年
シュガー・アクアティント、アクアティント
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