Art Column

第23回「共鳴」
見た瞬間「腑に落ちた」。言葉にすればそうとしか言いようが無い。合点したとか、納得したというのではない。
美術館と美術館の合間を縫って、馴染みのギャラリーに立ち寄った。会場に足を踏み入れてすぐ、少し離れたところにあった壺が目についた。「あっあれは」と刹那にこころが掻き立てられた。殆どがすでに売約済みとなっていた展覧会で、幸か不幸かそれにはまだ買い手がついていなかった。高さは40センチ余りもあろうかと見える、加守田章二(かもだしょうじ)の壺。思わぬ買い物は、ギャラリーの主人とトントン拍子に話が進み、相棒の関所もすんなりと通って決まった。
時代は高度成長期、鬼才と呼ばれるに相応しく、それまでの陶芸の常識にとらわれない独創的な作品を次々と発表したが、白血病を発症し50歳で逝った加守田。希少とは言え作品を求める機会は少なからずあったが叶わず、今回ゆくりなく縁は訪れた。
ギャラリーを出てものの5分とたたないうちに、通り沿いの店の奥に置いてある信楽の大壺と、ウインドウ越しに目が合った。思わず店に入って間近に見せてもらったそれは、古信楽だった。何の不足もない天晴れな姿。かつて加守田もきっとこんな壺に対峙したに違いないと、想像をふくらませる。
目の前にある古信楽の寛容と、今さっき見た加守田の壺の純粋が互いに響き合い、時の遠近法が私の前に美しい構図を現わす。ふたつの壺が宿す緊張の糸に手繰り寄せられ、かつてないほどそれらに私は惹きつけられた。
美術館行脚から帰ったら、長のお付き合いとなる陶芸家松田百合子さんから、嬉しくも個展の案内状が届いていた。松田さんは京都市立美術大学(現・芸術大学)工芸科を卒業、前述の加守田章二の後輩である。同大に工芸科が設置され教官に招かれた富本憲吉の最後の教え子で、他にも近藤悠三、清水九兵衛に学んだと聞いた。
20年程前になるが、初めて依頼した個展のDMに「陶芸日和」とサブタイトルを入れて、作陶の日々はそんなに甘く暢気なものではないと叱られたことが懐かしい。山梨県忍野村に移り住んで約半世紀、同じく陶芸家であった伴侶を喪ってからの独居生活も長くなった。制作三昧の筋金入りである。
染め付けや赤絵、金襴手、九谷に学んだ五彩による文様と、エロスを内在させたユニークな立体造形は、変幻自在、時折含み笑いを誘う。
この度の銀座での個展は、新作に加えて、1988年に発表した女性のヒップを型取り金襴手で上絵付けした代表作「La Prière」(祈り) など、1980年代からアーカイブされた作品を交え、新旧の作品を一堂に会して見応えのある構成となっていた。クリティカルな視線を感じさせる作風は、80歳を過ぎた今もなお健在であった。
松田さんと再会を約束して、しばらく初夏の風に吹かれるまま銀座を歩いた。ふと以前山形を訪れた時教えられた観光コピーが、口をついて出た。「都会に春を感じたら、月山夏スキー」。長く封印してきたひとりの作家への思いが甦る。
明治以降途絶えた泥釉七宝※の技法を現代に復活させ、独自の感性の世界を表現したKさん。出逢いは偶然目にした一点の香炉だった。雪の白と晴天の青、赤い南天の実、鮮やかなコントラストに、凛とした冬の空気を感じた。作者は雪国育ちに違いないと直感した。
地道な作業を積み重ねながら作品に生気を吹き込んでゆく。いずれ立山を主題とした作品で画廊をその「気」で充たそうと意気投合したが、計画を進める中で生じたいくつかの行き違いが、結局展覧会の実現を遠ざけた。
Kさんから突然電話があったのは、疎遠になって何年も経ったある早春の日の事だった。なぜ今かと訝しくもあったが、話すうちに長い間のわだかまりが溶け、胸のつかえがおりた。今度こそ個展をと心に決め準備を始めた矢先、とうに届いてるはずの郵便物が戻って来た。長く音信不通だったため住所に変更があったのか、それとも旅にでも出たのかとしか思わなかった。まさかそれが二度とこの世に帰らぬ旅であったとは、知る由もなかった。
真夏に初めて山形のアトリエを訪問した私と月山を望むリフトに乗って「冬はスキーで男たちに負けじと弾丸のように山を滑り降りたものよ」と、得意げに話した。「作家の工房といっても住まいを兼ねたふつうの小さな家よ。」と案内してくれた自宅、制作中の部屋や夢を語り合ったリビングも、諸共焼けてしまったのか。想像するには、全てがあまりに生々しくただひたすら悲しかった。
共に聴いたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。繰り返し聴いた2楽章。痛みをともなわずにはいられない別れに向けて、すでにひとり助走に入っていたのか。
あなたにしか生み出せなかった泥釉の色彩の数々。捨象し彩られた図象は、時空を超えた世界に見る人をいざなった。
自らの名を冠し取り分け愛した緋色「カミヌマレッド」は、あの夏の日の日差しと同じく、いまも私のこころの内で激しく輝いている。
※泥釉七宝
明治以降日本ではメタル七宝の透明な釉薬が一般的になり、それまでの泥釉七宝の技術は途絶えてしまった。透明な宝石の輝きのメタル七宝に対し、泥釉七宝は東洋的な玉の落ち着いた気品を漂わせる。


